久敬社は東京の麹町区番町で産声をあげ
数多くの若者を世に送り出してきた。
幾多の困難を乗り越えて今日の久敬社があるのは、
小笠原家をはじめ関係者の尽力の賜物である。
誕生から今日まで、
久敬社140有余年の歴史をここに記す。

1871

昭和3年(1928)東京在住の唐津出身者が高橋是清先生を招いた祝宴の写真

昭和3年(1928)東京在住の唐津出身者が
高橋是清先生を招いた祝宴の写真

前列左から2人目が天野為之法学博士、順に右へ曽禰達蔵工学博士、高橋是清先生、子爵小笠原長生閣下、掛下重次郎大審院検事

高橋是清を追いかけて

唐津では、明治4年(1871)、新時代の人材育成のために英語学校の「耐恒寮」(現在の唐津東高の前身)を唐津城内に創設することとし、若い高橋是清を英語の教師として招いた。

高橋の並外れた英語力は、明治政府に招聘され長崎から上京した宣教師フルベッキ邸に居候して磨かれたものであった。後に大蔵大臣や総理大臣となった高橋は1年余で東京に戻ったが、向学心に火がついた学生達は競って高橋を追い上京した。

この学生の中には、後に東京駅や日本銀行本館を設計した辰野金吾、三菱に入社し丸の内のビル群や慶應大学図書館を設計した曽根達蔵、早稲田大学の2代目学長となった天野為之、日本の鉱山技術者の先駆けとなった麻生政包、当時の大審院判事の掛下重次郎らがいた。

1878

小笠原長行(ながみち)

小笠原長行(ながみち)

小笠原長行公のお屋敷の一室に久敬社を創設

明治11年(1878)、東京の麹町区番町(現在の千代田区)に立つ、旧唐津藩の小笠原家当主・小笠原長行(ながみち)公の屋敷の玄関先一室を恩借して、「久敬社」は産声を上げた。

当時の会員には、「耐恒寮」で高橋是清の薫陶を受けて唐津から上京してきた掛下重次郎、大島小太郎、河村藤四郎、鈴木陽之助、辰野金吾、曾根達蔵、天野為之、蜂谷昌勝、吉原政道、麻生政包、渡邊鍈次郎、鈴木重陽らの俊才がいた。

青雲の志に燃えたもの同士で毎月一回必ず会合しては茶話会を開き、研学修養を積み、明治維新以降の日本の近代化に貢献した多くの人材が育っていった。

1886

小石川に寄宿舎「久敬社塾」が誕生

久敬社では、義捐金を集めて在京同郷人の疾病死亡を救恤することもあった。やがて郷里から上京し勉学する若者が多くなった折柄、学生達が互いに励まし合い、戒め合って向上するために、さらには経済上の理由からも寄宿舎の開設が切望された。明治19年(1886)、その願いはかない、小笠原家当主・長行公の篤志により同邸の一角に寄宿舎「久敬社塾」がめでたく誕生した。

1888

小笠原長生(ながなり)慶応3年(1867年)生まれ。小笠原長行(ながみち)の長男

小笠原長生(ながなり)
慶応3年(1867年)生まれ。
小笠原長行(ながみち)の長男

昭和5年10月29日久敬社塾神祭

昭和5年10月29日久敬社塾神祭

集合シテ山囃子の音ヲ聞キツツ甘酒ト赤飯ヲ食スルトキ誰モ東京ニ在ル事ヲ忘レル、此日塾舎ノ内外ハ隈ナク装飾サレ二階ニ見エル鐘太鼓ノ山囃子ハ終日小石川ノ天地ニ響キ渡ル家族同伴唐津人

小笠原長生公が久敬社社長に就任

日を追うごとにますます入塾者は増加し、塾規範も整備されたことをもってその功績が称えられ、さらに小石川区表町六十番地に新塾舎を賜った。

しかし、それでもなお入塾者は増え続け、明治20年(1887)5月に同じ小石川区表町の八十六番地、伝通院に隣接する場所に新たな塾舎を賜った。

翌年には長行の長男・小笠原長生(ながなり)公が久敬社の社長に就任、明治43年(1910)には財団法人組織に改められた。

1941

昭和30年(1955年)伊豆長岡の長生公宅・一茶苑を塾生訪問

昭和30年(1955年)伊豆長岡の
長生公宅・一茶苑を塾生訪問

新宿区西大久保での再興から大戦を乗り越えて

その後大正から昭和に移り、昭和10年(1935)に東京市の都市計画路線新設のため、久敬社塾は主要部分を割譲せざるを得なくなり、将来の発展を期してやむなく閉鎖された。

しかしながら、小笠原家の創設による尊い遺業を断絶させてはならないとの久敬社塾再興への願いは強く、皆の力強い声が集結して、ようやく昭和16年(1941)に新宿西大久保の地に再興された。折からの大戦で度々空襲にさらされたが、建物の被害は何とか免れることができた。さらに戦後の食糧・住宅事情が最悪で社会全体が混乱した時代の中でも、小笠原家をはじめ関係者や塾監、OB、塾生達の力で幾多の困難を乗り越えることができた。

1966

昭和41年、現在地の千代ヶ丘へ移転

やがて塾舎の老朽化は激しくなり、建設省の東京都市計画に関する告示を機に、昭和41年(1966)に小田急線「百合ヶ丘駅」近くの千代ヶ丘の地へ移転。昭和53年(1978)11月3日には久敬社創立100周年を迎えることができた。そうして時代は昭和から平成、令和へと移り、この140有余年の間、久敬社塾は同郷人の懇親と育英事業を続け、数多くの若者を世に送り出して現在に至っている。

来る2028年には、創立150周年という記念すべき年を迎える。

久敬社ゆかりの先人たち

久敬社にゆかりがある、歴史に名を刻んだ先人たちを紹介いたします。
掲載しているのはごく一部で、他にもたくさんの素晴らしい方たちがいます。

辰野金吾(たつのきんご)

たつのきんご辰野金吾1854-1919

唐津・坊主町生まれ。明治・大正期の日本建築界の巨匠。日本銀行本館や中央停車場(東京駅)、武雄温泉新館・楼門、日本生命九州支店などを設計。中央停車場に代表される、赤レンガに白い石を帯状に配し、屋根に塔やドームをいただいた建築スタイルは「辰野式」と称される。 旧唐津銀行「辰野金吾記念館」はこちら

曾根達蔵(そねたつぞう)

そねたつぞう曾根達蔵1853-1937

江戸城下丸の内の唐津藩邸生まれ。辰野金吾と共にジョサイア・コンドルに学んだ日本人建築家第1期生。三菱に入社し、赤レンガのビルが建ち並ぶ東京丸の内のオフィス街の基礎を築いたほか、三菱長崎造船所の占勝閣、慶応義塾大学図書館、三井銀行小樽支店などを設計。

掛下重次郎(かけしたじゅうじろう)

かけしたじゅうじろう掛下重次郎1857-1931

唐津・埋門小路生まれ。耐恒寮の一期生。法律家・法学者として、大審院判事(現在の最高裁判所判事)から会計検査官、懲戒裁判官、大審院検事(現在の最高検察庁検事)への経歴を歩む。晩年は教育者として関西大学、明治大学、法政大学などで教鞭をとった。

麻生政包(あそうまさかね)

あそうまさかね麻生政包1857-1914

唐津城下生まれ。工学寮(現在の東京大学工学部)卒業後は、全国の炭鉱を飛び回って調査研究と技術指導に奔走。ダイナマイトを産業用に用いるという研究報告は、各地の炭鉱でダイナマイトが使われるきっかけとなり、我が国のエネルギー供給能力の拡大を牽引した。

天野為之(あまのためゆき)

あまのためゆき天野為之 1861-1938

江戸麻生桜田の唐津藩邸生まれ。経済学者、ジャーナリスト、政治家、早稲田大学学長、早稲田実業学校校長などを歴任。2010年開校した早稲田佐賀中・高の校舎は佐賀県立唐津東高で、同地は天野が少年期に学んだ英学校「耐恒寮」から受け継がれている。

大島小太郎(おおしまこたろう)

おおしまこたろう大島小太郎1859-1947

唐津藩の財政を一手に引き受けた大島興義の長男。上京して経済学を学び、唐津に戻って佐賀銀行の前身である唐津銀行の設立と共に初代頭取に就任。港湾整備、唐津と佐賀・博多・伊万里を結ぶ鉄道や道路の敷設、市街地の電化などインフラ整備と地域産業振興に尽力した。 大島邸(大島小太郎の旧宅)はこちら

唐津の八偉人とは

唐津にゆかりのある偉人の中でも特に唐津の発展に影響を与えた小笠原長行、辰野金吾、曾根達蔵、天野為之、大島小太郎、大野右仲、長谷川芳之助、奥村五百子ら8名を称します。

唐津の八偉人を見る