1970卒塾

75歳 有馬 幸憲さん

百合ヶ丘久敬社 第一期生

【本当は細山久敬社?】

久敬社塾の150年の歴史をたどるとき、空白期間はあるものの、伝通院時代、西大久保時代そして百合ヶ丘時代と所在地等に応じた呼称で語られる。

私は、昭和41年(1966年)4月に、新築の現塾舎に入塾した百合ヶ丘久敬社第一期生の一人であるが、入塾当初は「百合ヶ丘久敬社」の呼び方に違和感があった。

確かに最寄り駅は百合ヶ丘という小洒落た駅名だが至近距離でもなく、塾の住居表示も「川崎市細山」で、宅地開発初期の細山地区の一角にあり、花の東京での暮らしを夢見ていた私にとってはひなびた「細山久敬社」の呼び方のほうが的確ではと思ったものである。

その後、数度の住居表示変更を経て現住所名となり、宅地開発も進んで町の体をなし、新百合ヶ丘駅ができてバスが通うようになって、ようやく「百合ヶ丘」の名前が馴染むようになったように思う。

【男女共同寮へ】

その百合ヶ丘久敬社も、今年(2023年)4月に58年目を迎え、既に3時代のなかで最長となった。

私は、卒塾後も、請われるままに通算30年近く久敬社の役員を引き受け、百合ヶ丘久敬社の変遷を見てきた。
現在地に移転してからしばらくは、常時40名前後の塾生が在籍して賑わっていたが、唐津地区から関東の大学への男子進学者の減少や唐津市の高校における久敬社塾の認知度低下に伴い入塾生も徐々に減少し、4・5年前には塾生数が一桁となることも予測され、廃塾も脳裏をよぎる状況に至っていた。

そこで、久敬社塾の存続を図り、かつて塾の課題としていた女子学生への安全な生活の場の提供をできる限り早く実現するために実行したのが令和2年(2021年)4月の男女共同寮化であった。

男女共同寮については、その以前から理事会で検討はされていたものの、塾舎の移転あるいは建て替えを前提としていたのでなかなか踏み切れずにいたが、上記理由から、急遽、現塾舎の改築による女子学生受け入れを開始することとした。

男女共同寮化の結果は、今のところ予期以上の成果を収めているが、ここに至るには偶然の人的巡り合わせによるところもあり、共同寮化に大きく貢献された方々を記しておきたい。

山崎信也・桂子塾監夫妻(信也氏は1978年卒塾)

前塾監の早期退職希望もあって、十分な引き継ぎも受けられなかったなかで、着任1年後に女子学生受け入れ開始という大転換期に臨んだにもかかわらず、見事に塾の管理・監督の職責を果たしていただいている。

久敬社塾の運営の巧拙は、偏に塾監の力量に負うところが大きいが、山崎夫妻でなければ、これほどうまく共同寮化は進まなかったと思う。

松本賢悟前理事長(1976年卒塾)

前任理事長の退任時に後任の引き受け手がいないなかで押し付けられて理事長に就任されたが、職責には真摯に臨まれ、前塾監の退職申し出に伴う後任探しにも奔走して山崎信也氏を見いだし、塾監不在で久敬社塾が運営できなくなる危機から逃れることができた。

残念ながら、体調を崩され理事長在任は短期間であったが、退任前に現塾舎での共同寮化を決意し、その後に道筋を残してくれた。

新倉弘子評議員

唐津出身のご縁から久敬社の評議員を引き受けていただき、塾生募集活動等にも積極的に参画していただいているが、塾生募集のための高校訪問において改めて女子寮ニーズの強さを的確に把握し早期の共同寮化を理事会に提起して、現塾舎での女子受け入れ開始のきっかけを作っていただいた。

加茂郁一理事(1979年卒塾)

久敬社のホームページ立ち上げ・メンテナンス、塾生募集案内パンフレットや広報物広告案の作成等で久敬社のビジュアル化に貢献され、「見える久敬社」により唐津における久敬社塾の周知、イメージアップを図ることができて共同寮化を促進することができた。

青木直敬前評議員

久敬社OBではないが、やはり唐津出身のご縁で評議員を引き受けていただき、建築関係の豊富な実務経験に基づき当面の女子学生受け入れに対応しうる塾舎改築に大いに貢献いただいた。

もちろん他の役員も協力のうえ物事は進められたが、企業経営と同様にまさしく「組織は人なり」であり、上記6名のどのピースが欠けても今回の共同寮化は実現しなかったと思う。

【新塾舎の建設を!】

ただ、共同寮化の課題はこれで終わった訳ではなく、3年間の女子学生の入塾申し込み実績をみて、これからの久敬社塾の方向性は定まったので、次はやはり、郷土を離れて勉学に励む学生を安全に預かるという久敬社塾の最大の使命を果たしていくために、また、ジェンダーフリー等の新たな課題に対応するためにも、できる限り早く男女共同寮に相応しい新塾舎の建設を図っていくべきと思われ、私自身もできる限りのお手伝いをしていくつもりである。
(2023年10月  記)

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