1957卒塾

65歳 中山英雄さん

西の同志社、東の久敬社

1957年に久敬社を卒塾,1977年から2010年まで塾監を務めた中山英雄さんが都塵85号(2000年発行)に「西の同志社,東の久敬社」と題して,久敬社の今昔と塾監としての思いを寄稿されています。以下に転載します。
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久敬社。初めての人でこれをキュウケイシャと読める人はそう多くない。
久敬社っていったい何ですか?と質問される。説明するには少し時間がかかるので,京都に同志社という歴史のある大学が存在し,それと同じように久敬社という塾が今もある。そう言って少し理解してもらうことから話を始める。

久敬社は,小笠原長行が明治11年(1878年)11月4日に,東京千代田区番町の屋敷に久敬社と称す藩政時代からの同郷の人々の集まりをもったのが始まりとされている。これは,小笠原長国が高橋是清を招聘して耐恒寮(現唐津東高)という英学校を作ったのが元になったのだろう。幕末から明治期に入った唐津藩の青年たちに,「これからどう生きていくか」を考えさせた大切な学校だったと思われる。短い期間だったが,ここで学んだ人達が東京に集まり,同郷出身者の面倒をみて世の中へ羽ばたいていった。

小笠原長行が後に子息長生に語っている。「私はこの世に生まれて何のお役にも立たなかったが,久敬社があることはよかったね」と。そんな久敬社のクラブに集まってくる唐津出身の青年たちのために,明治19年(1886年)に寄宿舎「久敬社塾」が小笠原家の屋敷の一角に生まれた。ここを振り出しに,小石川伝通院の隣りに移り,さらに新宿・西大久保,昭和41年(1966年)に川崎・百合ケ丘へと移った。それぞれの場所で学び生活をした人たちが,伝通院時代,西大久保時代と呼んで懐かしんでいる。番町,伝通院時代の財政は小笠原家の恩恵を受け,西大久保時代は久敬社塾の卒業生や唐津市・東松浦郡町村・佐賀県の力や補助を受けてきた。唐津中学校(唐津東高校)を出て東京を目指す多くの人達が久敬社塾を起点に学んだのだ。

伝通院時代(明治20年~)に一時期,久敬社で独語と英語を教えたことが記録にある。なぜ休校になったかは定かでない。「もしも」という言葉があるが,外国語を教える大学として久敬社が続いていれば,西の同志社,東の久敬社と呼ばれていたに違いないなどと思いを馳せる。なぜかというと,当時の久敬社には,天野為之(早稲田大学の創設に力を尽くし学長になった),掛下重次郎(裁判官,明治大学創設者のひとり),明治近代建築の双璧といわれた辰野金吾,曾根辰蔵などがいた。錚々たる人物がいながら久敬社塾がなぜ大学の道を選ばなかったか。それには,明治新政府という時代背景があっただろうと思う。

伝通院から西大久保に移る一時期に塾を閉鎖したが,塾の再興を望む先輩や郷土唐津の人たちの声が高まり,昭和16年(1941年)6月に新宿・西大久保に塾舎が再建された。太平洋戦争となり周辺は焼け野原と化したが,残っていた塾生たちが必死になって守り抜いた。物のない戦後の苦しい時代を,同郷の仲間達と生活を共にし,勉強を続けることができた塾生がたくさんいる。

現在の百合ケ丘の地には,東京の都市計画によって移った。緑が多く,素晴らしい環境の中にあり,個室・エアコン・電話等の設備も整い,テニスコートもある。東京で一人で生活する不安や経費がいくらかでも少なくできることは,同郷の人たち・保護者にとってたいへん有難いことだと感謝されている。

時代の困難をいつも乗り切って今日まで120年間続いてきたことに,郷土を思い深く感謝している。久敬社はどうあるべきかはいつの時代も同じである。唐津市その他あるいは外国からの青年たちにどのような環境を与え,共に生活する場が今日こそいかに必要であるか,大切であるかを久敬社の使命と考えている。

首都圏の大学へ進学してくる学生にこの生活を提供できる喜びを強く感じている。

(2000年11月  中山英雄-1957年卒 記)

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